「働くことは善である」「山本七平の智恵 日本人を理解する75のエッセンス」第二章 20 より
彼は「元来形ある者は形は直に心なりと知るべし」という面白いことを言っている。 この「心」とは宇宙によって定められた生物の絶対的な行動原理のような意味である。 簡単にいえば、馬は馬の形をしている。それが馬の「心」を決定しており、従って馬は草を食って生きている。 これは「天」が定めたものであるから、馬に血を吸えの、ノミに草を食えのといってもそれは無駄である。 と同時に、各生物はこの行動原理に従うことによって宇宙の秩序に従っており、それによって生きかつ自らの社会を形成していると梅岩は考えていた。 いわば「馬の形が馬の心なり」と知るべしなのである。 同じことは人間にもいえる。「人間の形が人間の心」であり、人間もまた天の支配を受けるものとして、その形に示された行動原理に従わねばならない。 そして宇宙の基本は善であるからこれに従うことが「善」であり、これに従わないことは「悪」である。 では一体、人はどのような形に造られているか。
馬は草を食うような形に造られているが、人にはそれは不可能であり、人間は勤労によって食を得るという形をしているのである。
そうなれば、勤労は天の秩序に従っているがゆえに「善」であり、怠惰は天の秩序に従っていないゆえに「悪」であるとなって当然である。 こうなれば怠け者は悪人であり、働き者は善人だとなる。 (昭和五十八年「一九九〇年の日本」 九九、一〇〇頁) ========解説======== この「宇宙の基本は」というのは「存在するものは」と言い換えたらいい。 人間がこれ以外の考え方は絶対できない、という一つの外枠を言っているのである。 人間たるものは、どんなに考えようと、存在するものは善である、それは正しいことである。 そう考えないかぎり、われわれは生きていられない。 われわれが生きていることは善なのである。 この地上が人間をつくり出したことが善なのであそそれを「天」と言っているわけだから、つまるところ存在するものは善である、という、これは性善説以上のもっと深い考え方である。 そうすると、こんどはその存在するものが、その存在を確保するための一つの道というものがある。 それぞれスタイルというものが決められている。そのスタイルを守ることが善である。 とすれば、それを多少と当崩すものは悪である。 こういう関係になるから、ここで初めて「働くことは善である」となる。 これは日本列島でなければできない思想で、バナナのぶら下がっているところでは、「天は善なり、存在するものは善なり」になっても、「善とは寝そべってバナナを食うこと」になる。 大前提はわれわれと共通だが、しかし、その後の「働くことが善である」という考え方は出てこない。 つまり、何らかの所作を人間がしなけれぱ生存を確保することができないという条件に置かれているところに文明が発生したというのは絶対に事実で、人間が所作をしなくて、本当にただ自分が食って排便するだけでいるならぱ、この後半の理論は出てこない。 むしろ、そういう本当に楽園であれば、何かをすることが逆に悪になるだろう。 何もしないで食えるところで一人が営々と働いてバナナをため込んだら、これは悪だろうから、努力しないこと・働かないことが善であるということになるだろう。 それに反して北半球ではこうなる。 人類が、地球が、これから百年以上かかって解決しなければいけない問題は南北問題だが、その南北問題のよって生ずるゆえんを一面から述べた議論ということもできるだろう。
是非読んでみてください。
「山本七平の智恵 日本人を理解する75のエッセンス」 |
依光感想 働くとは何か? 江戸時代の石田梅岩もこのようなことを考えていたというのは驚きです。 働くということ。 善とは何か? FUSEとしても真剣に考えてたいと思います。
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