「逆境を転機に」
「竜馬がゆく」1巻 悪弥太郎 より
とにかく、田野浦の郡代役所の牢暮らしがなかったならぱ、後年、岩崎は三菱財閥を興すような男にならなかったであろう。
弥太郎に算用を教えた魚梁瀬村(今の馬路村)の太助は、かれの物覚えのいいのに感嘆して、
「とにかくおどろいた。うらァ、この算用の術を覚えるのに四、五年かかりましたが、お前さんは一月で覚えなさった。二本差しの固苦しいお人にしては大したものでござります。お前さんのようなお方が商売をなさったら、えらいことになるじゃろ」
「いや、恩になった。牢にでも入らねばこういうものは覚えん。こんど御赦免になったら武芸も書物もすてて、商人になる。うらが日本一の金持になりゃ、恩返しにモッソウ櫃に小判をびっしり詰めて贈るぞ」
「あっはは、そいつはありがたい。その気でやることでございますな」
太助はむろん冗談だと思っていた。
が、後年、老いた太助が魚梁瀬村の山中で患い、ひどく窮迫していたころ、天下の三菱会社の総帥があのときの弥太郎だと知っておどろき、村の者にそのころの物語をしたところ、聞く者はみな、
「そら、太助どん聞きずてならん、貰いに行ったらどうじゃ」
「なにをいう。わしを乞食にするか」
歯牙にもかけなかったという。
「某(ぼう)、遂二行力ズシテ止ム。亦(また)一異人ナリ」
と、古い岩崎弥太郎伝では、漢文調の名文でこう書いている。
無名で朽ちたとはいえ、よほど骨のある人物だったのだろう。
もっとも太助の死後、岩崎家では約束どおりにその子へおびただしい金を贈って当時の恩を報じた。
FUSEが心から推薦する一冊です。
是非読んでみてください。
「竜馬がゆく」
文春文庫
定価 552円
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