28土佐の場合(自由思想)
「この国のかたち」文春文庫より
「土佐の際立つ異質」いまなら単に高知県という一つの分県にすぎず、法制や慣行のすみずみまで、にとえば新潟県とちがうところはないのだが、江戸期にあっては、天領と小藩の多い越後と一国一藩(国持大名)の土佐を一つのものとして見ることは、不可能だった。国持ということばが出たついでに、そのことにふれておく。仙台の伊達氏、秋田の佐竹氏、米沢の上杉氏、大和郡山の柳沢氏、越前福井の松平氏などは、一国こそ領有しないが、"国持衆"の礼遇をうけていた。名実ともに一国もしくは数国をもつ藩は、三カ国を有する加賀の前田氏が最大で・ついで二カ国を有するものに薩摩の島津氏がある。長州の毛利氏、因州鳥取の池田氏・阿波の蜂須賀氏もニカ国の国持だった。また一カ国のものは筑前福岡の黒田氏・土佐の山内氏、安芸広島の浅野氏、備前岡山の池田氏があり、最小のものとして対馬の宗氏がある。国持の諸藩を比較しても、たがいに外国かと思えるほどに風土がちがっていたが、なかでも土佐藩の異色は、きわだっていた。明治3年といえば、江戸期がまだつづいていたようなものである。その前年にいわゆる"版籍奉還"がおこなわれたものの、多分に名目的なもので、将軍のかわりに天皇が大名たちの頂点に立っただけであり、藩は依然として残っていた。藩主は藩知事と改称されたものの、その下に江戸期のままに士農工商が存在し、藩士層はなお大小をたばさんで農民の上に立っていた。その時期、"人間は平等である"と、土佐藩(当時、高知藩)は、宣言したのである。明治3年12月のことで、藩庁は、右の『諭告』を出した。当時、この『諭告』は"四民平均論"とよばれた。平均とは平等ということばが一般化する以前のことばである。「諭告」は冒頭に人間というものの規定から説き、人間こそ天地のなかでもっとも貴重なもので「特に霊妙の天性を具備し、知識技能を兼有」するという。「もとより士農工商」や「貴賎上下の階級」があってよいものではないというのである。「当藩は」と、明快に主語を置く、当藩は今日より、「人間は階級によらず貴重の霊物なるを知らしめ、人々をして自由の権」を持たしめる、とたかだかというのである。さらに、国語の解釈まで施している。古来、武士を"士"と称してきたのは、ことばとしてのまちがいだったといい、「抑々(そもそも)古に士と称するは有志有為の称にして必ずしも門閥の謂(いい)にあらず」と説く。同時代一般からみれば過激というほかない。
長曾我部氏問題は、戦国末期にさかのぼる。そのころの土佐は長曾我部元親によって統一されたが、元親は勢いを駆って四国平定を志した。他の三国(阿波.伊予.讃岐)はなお室町体制の武士組織が継続していたが、"チョースガメ"と訛ってよばれたこの新興土佐の軍は、約一万の農民出身の者が刀槍をたずさえて正規武士として主力をなしていた。元親にすれば四国平定のための兵員不足のために、いわば領民皆兵制をとったのだが、動機が功利的であったとはいえ、結果は平等という思わぬ思想の根を土佐の風土におろさせることになった。かれらは農民兵といっても足軽という歩卒ではなく、軽格ながら士分で、馬一頭を持っていた。平素は田畑を耕し、耕作中も具足櫃(びつ)をかたわらにおき、あぜに槍をたてて、兵糧をむすびつけてあった。そういうことから、「一領具足」とよばれた。元親の四国平定は挫折した。中央においてにわかに豊臣政権が成立したからで、結局はその傘下の一大名になって土佐を安堵された。子の盛親の代になり、関ヶ原で西軍に加担したために土佐を没収され、この家はほろんだ。問題は、そのあとである。勝った徳川家康は、思いきった論功行賞をおこない、遠州掛川でわずか五万石という小大名だった山内一豊を、土佐二十四万石という一国大名として封じた。このため、山内氏は家臣団を数倍にふやさねばならない。こういう場合、長曾我部氏の遺臣を大量採用すれば人心を得るはずなのだが、山内氏としては五万石のわずかな兵力で、遺臣(多くは一領具足)が白刃を磨いている土佐に入ることをおそれた。このため上方に集まっていた関ヶ原浪人などをかきあつめて二十四万石の大兵力を作りあげてから入ったのである。結果として領民を敵視する形になった。 遺臣たちは、百姓身分になった。かれらは浦戸城にこもったり、諸方に屯集したりして抵抗した。農民はその一族から一人ぐらいは一領具足を出しているため、武とは無縁の自分たちまで長曾我部氏の遺臣のように考えるようになった。こんにちなお多くの土佐人は長曾我部侍の末裔として考えているのである。そういうことから、山内家とその家臣団は、二百七十年間、進駐軍になりはてるはめになった。当初はさかんに討伐隊を出して退治をし、手を焼きつつも、およそ千人以上は殺したが、殺すだけでは解決はできない。やがて山内家は"郷士"という身分を新設し、かれらを実質農民でありながら、軽格の士分待遇にして、人心をなだめようとした。第一期は、百騎がえらばれた。さらに、新田開発をした者も、郷士にした。江戸初期には、六百騎ほどになるという多さだった。が、せっかくそうしておきながら、山内家の失敗は、かれらを強烈に差別したことである。上士である"山内侍"(あるいは掛川衆とも)と郷士が道で会えば郷士は路傍に身をよせて片ひざをついて拝礼しなければならず、両者の通婚はほとんどなく、上士は郷士に対し斬りすて御免の権すらもっていたのである。げんにそういう事件があった。江戸後期の寛政九年(1797年)、山内侍で御馬廻二百石の井上左馬助という者が、自宅で友人と飲酒中、刀の鑑定(めきき)の上手という比江村の郷士高村退吾をよんで愛刀をほめさせようとしたところ、高村はこれを酷評した。井上は腹だちまぎれにこの高村という郷士を斬り殺し、翌日、この旨、組頭に届け出ただけだった。藩はむろん無罪とした。このことで国中の郷士が動揺したため、藩はおそれて井上を減知にした。それでもおさまらず、年をへて騒ぎはいよいよ大きくなったため、六年後、藩は井上を追放処分にし、やっと国中を沈静させることができた。この寛政の騒動は、平等とはなにかについて土佐人に考えこませたにちがいない。
土佐の一君万民思想土佐は、他国とすこしちがい、庄屋職は豪農に命ぜられるというよりも、任命制による下級の地方吏員だった。主として郷士が任命された。寛政騒動で自分の意識をもみぬいた老人たちがまだ生き残っていた天保年間、長岡郡など三郡の庄屋たちが内密にあつまり、秘密の申しあわせをしたのである。"天保庄屋同盟"といわれるもので、この秘密同盟については以前に書いたからくわしくはのべないが、ともかくも観念の上で幕藩体制をつきぬけるため"天子"という当時としては架空の一点を設けたのである。とすれば、理論の上で山内家も上士も消滅し、自分たち庄屋は"王民"(百姓のことである)を世話する職だから"天子"の直参になるということなのである。いわば一君万民思想というべきもので、幕藩体制での平等思想の筒いっぱいの展開といっていい。幕末、土佐藩山内家は、濃厚な佐幕主義でつらぬかれていた。これに対し、一国の土佐郷士有志が武市半平太のもとに同盟を結び、藩と対立し、ついには藩の弾圧にたえかねてつぎつぎに脱藩した。郷士内部にも藩が設けた階層制があったのだが、かれらは藩境を一歩脱すると、かならず、「これからは、オラ・オ前(マン)でゆこう」と申しあわせたといわれる。二百数十年の平等への希求のあらわれといえる。脱藩した土佐浪士は、幕府派である藩の保護などむろんうけるはずがなかったために、多くが山野や京都で屍をさらし、凄惨な殉難史をつづった。脱藩者坂本竜馬が幕吏に襲われて死んだのも、藩邸の近くの町屋に宿泊していたためだった。この時期、すでに土佐藩の方針が大転換し、脱藩者たちの路線に沿っていたのだが、竜馬のほうがむしろ「いこじ」に藩邸で保護されることをきらっていたらしい。竜馬の死後数年たって、冒頭の『諭告』が藩庁から出ることになる。明治年問を通じ、土佐が自由民権運動の一大淵叢(えんそう)になるのは、以上のべた"かたち"からみて当然だったといっていい。この、『諭告』の副署人は、大参事 板垣退助と権大参事 福岡孝弟(たかちか)であった。どちらも上士(山内侍)の出で、両人とも数年前までは佐幕傾向の藩官僚だったことをおもうと、この、『諭告』は領民全体をおおっていた平等希求に降参した宣言ともうけとれるし、また山内侍が関ヶ原以後、ようやく土佐に同化したという宣言書ともいえそうである。 FUSEが心から推薦する一冊です。 是非読んでみてください。資料として 「この国のかたち2」28土佐の場合 司馬 遼太郎 著 文春文庫 定価 (419+税)円
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